村松志保子とは

現在にも誇るべき明治の自立した助産師

 

医院開設

女学校・産婆学校設立

慈善活動家

産婆界のリーダー

安政3年(1856)7月23日~

大正11年(1922)1月26日

 


 

家族写真より(八杉家所有)

 

 安政3年(1856)、父 沼田藩御殿医 村松玄庵の長女として沼田藩の藩邸(港区)で誕生。

 男兄弟三人は幼くして亡くなり、志保子は女医になる決意をし、沼田藩別邸(墨田区)で父に東洋医学を学び針術を修め、医術の研鑽を深めた。

 明治9年(1876)、妹春子の産褥熱による死亡を機に、助産師(産婆)の重要性を痛感し、済生学舎にて西洋医学を修めた後、女医ではなく産婆となった。

 明治14年(1881)安生堂医院を開設し、翌15年には別科に産婆学を有する女学校淑女館を設立し女徳の向上を目指した。

 次いで、安生堂産婆学校を設立し、豊かな教養を身につけた産婆育成に尽力した。

 また、安生堂医院では、貧困者に無料施療入院を実施し、母子のために保健福祉的な慈善活動を展開した。

 東京産婆会において幹部として活躍する。

 明治25年(1892)16名媛に産医家としてトップ当選する。(16分野での名媛を投票選出発表:読売新聞)

 大正11年(1922)病没。

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助産師 村松志保子の意義

現在にも誇るべき助産師界のリーダー

明治の自立した助産師「村松志保子」の現在的意義

 

村松志保子助産師顕彰会書記長 岡本喜代子

 

数年前より墨田区の文化財調査活動を通じて、前調査員の原島早智子さんの地道な調査活動により、明治中期に、女医から助産師(産婆)になり、女性の健康を守り、まだ極端に低かった当時の女性の地位向上のために、一生を捧げた先駆的で自立した助産師(産婆)村松志保子の存在が明らかになってきた。

私は、20数年前、国立公衆衛生院(現国立保健医療科学院)で、明治時代の助産活動に関する研究をした。この時代、他の分野では、ようやくわが国でも、荻野吟子や津田梅子等の女医や教育者等、目覚めた自立的な活動をした女性が出現した時代でもあった。

しかし、助産師(産婆)の中には、そのような自立的な人物はほとんどいなかった。その原因が教育背景にあり、自立的女性は、女学校を出ており、当時の女学校はミッション系で、神様の前での人間の平等、男女平等が当然の考えの教育を受けていた。一方、産婆は、儒教的な考えが基盤になっている尋常小学校の出身が普通であった。

志保子の存在は、わが国の助産師の歴史を塗り替え、助産師の本格的な職業化をした明治時代のみならず、現在の助産師にとっても、その存在は、意義深い。

志保子は、当初女医として活動すべく、東洋医学を沼田藩医の父玄庵から学び、さらに済西学舎で西洋医学を学んだ。しかし、妹の産褥熱による死亡を契機に、女医ではなく、産婆として活動することを決意した。

また、実践面で、貧富の差別なく母子への博愛的な保健・福祉活動を展開した。その業績は、先駆的、自立的助産師として、永く助産師界のリーダーとして、将来にわたって、先達として、その存在意義が増していくことであろう。

自然分娩や母乳哺育へのニーズが高まっている現在、さらに福祉的活動家としても、現在における村松志保子の存在意義が益々大きくなっていくことであろう。

奇しくも、本年が志保子生誕150周年にあたる。自然分娩や母乳哺育の普及が課題という現在の日本の出産や助産師への警鐘のために、志保子は150年間の深い眠りから目覚めたという気がしてならない。

「助産師よ、母子のために自律せよ!」と。